(via mystic-lady)
もう一度人生をやり直せるなら・・・・
今度はもっと間違いをおかそう。
もっとくつろぎ、もっと肩の力を抜こう。
絶対にこんなに完璧な人間ではなく、もっと、もっと、愚かな人間になろう。
この世には、実際、それほど真剣に思い煩うことなど殆ど無いのだ。
もっと馬鹿になろう、もっと騒ごう、もっと不衛生に生きよう。
もっとたくさんのチャンスをつかみ、
行ったことのない場所にももっともっとたくさん行こう。
もっとたくさんアイスクリームを食べ、お酒を飲み、
豆はそんなに食べないでおこう。
もっと本当の厄介ごとを抱え込み、
頭の中だけで想像する厄介ごとは出来る限り減らそう。
もう一度最初から人生をやり直せるなら、
春はもっと早くから裸足になり、秋はもっと遅くまで裸足でいよう。
もっとたくさん冒険をし、もっとたくさんのメリーゴーランドに乗り、
もっとたくさんの夕日を見て、もっとたくさんの子供たちと真剣に遊ぼう。
もう一度人生をやり直せるなら・・・・
だが、見ての通り、私はもうやり直しがきかない。
私たちは人生をあまりに厳格に考えすぎていないか?
自分に規制をひき、他人の目を気にして、
起こりもしない未来を思い煩ってはクヨクヨ悩んだり、構えたり、落ち込んだり ・・・・
もっとリラックスしよう、もっとシンプルに生きよう、
たまには馬鹿になったり、無鉄砲な事をして、
人生に潤いや活気、情熱や楽しさを取り戻そう。
人生は完璧にはいかない、だからこそ、生きがいがある。
- P.F.ドラッカー 享年95歳 -
でも一番驚かされたのは世代格差についてです。
学校でのことでした。
体育館は老人ばかりでした。
齋藤さんが若い人がどこにいるかと学校の中の被災者に聞くと校庭にいるといわれます。
そして校庭に行った齋藤さんに投げかけられた一言は
「赤十字は僕らには毛布をくれない」
でした。
物資は学校の中に十分来ています。
中に入ってもう一度老人に話を聞くと一言、
「町内会費を払っていないから」
とのことでした。
齋藤さんの説得で物資は行き渡りました。
数日後になると女性や子供たちが体育館の中で生活している姿や、世代の違う人が共同で作業をしている姿があったそうです。
齋藤さんはこのとき地域のコミュニティが壊れていることを実感したとおっしゃっていました。
東京で震災にあったときのことを考えて私はわが身の安全を思わざるを得ませんでした。私の住んでいる家は3年前に引っ越してきたばかりだからです。
齋藤さんが物資を出してもらったとき、しぶる老人に対して「あなた方に運べない大きい荷物を持つ人が必要」ということをおっしゃったそうです。
そうでもしないと物資が行き渡らなかったというところに人間の経済学的な側面を感じて私はせめてあいさつをきちんとしようと思いました。
詩と書評とマインドマップで作る発想紹介ブログ 幡ヶ谷のライブハウスで震災ボランティアの方から中越地震のお話をうかがいました その1 (via clione) (via daimasu)
老醜
(via theemitter) (via yaruo) (via shrineroof)
(via otsune)
(via kotoripiyopiyo)人間の根源的欲求を満たすネット
なぜインターネットの登場で、メディアは最終的にソーシャルメディアに向かうのか。それは、情報発信するということが人間の根源的欲求であり、インターネットはその欲求を満たすことができるからだ。学生時代に興味本位でマルクス経済学の授業を受けたことがある。その内容の多くはほとんど記憶していないが、今だに覚えていることが1つある。それは、人間はなぜ生きて、働くのか、に対するマルクスの答えだった。
マルクスによると、人間は「表現」「評価」「つながり」の3つの喜びを得るために働くのだという。1つ目は自分の思いを表現することの喜び。例えば、リンゴ農家がおいしくて安いリンゴを作りたいと願い、思い通りのリンゴを作ることができたとき、リンゴ農家は大きな喜びを得ることができる。リンゴという農作物を通じて、この農家は自分の思いを表現するわけである。
そしてそのリンゴは安いので多くの人の手に渡り、食べた人から「おいしい」と評価される。この評価は、リンゴ農家にとって大きな喜びになる。
さらに、評価してくれた人たちや同じ思いを持つ他のリンゴ農家との付き合いが始まる。「つながり」の喜びだ。
もしマルクスの言ったことが本当なら、双方向通信が可能なインターネットは、この3つの人間の根源的欲求を満たすのに最適の仕組みということになる。そしてその仕組みの特性を生かし、3つの欲求を満たすことのできるメディアが成功するのは当たり前の話である。
そう考えれば、従来型メディアや、従来型メディアをネット上に乗せただけのデジタルメディアが、いずれソーシャルメディアにシェアを奪われるのも当然の流れといえる。
(中略)
実はウィキペディアはスタートから1年間ぐらいは、まったく情報が集まらなかったといわれる。ところが、過去の書き込みをすべて記録でき、誰がどのような情報を提供したかが分かる仕組みに切り替えてからは、莫大な情報が集まるようになった。自分の知識や情報を出し、そのことに対する評価が得られ、ほかの参加者とも交流できるようになってから、飛躍的に情報が集まるようになったのである。「表現」「評価」「つながり」の喜びを得ることができるような仕組みが整ったことで、成功したわけだ。
つまり、3つの喜びを得ることのできる仕組みをうまく構築することができれば、どのような分野でもソーシャルメディアが成立するのではないだろうか。わたしはそんなふうに考えている。
有名人も犯罪者も、自分たちがいるこの世界の住人で、我々と同じ人間なんだよね。だから自分たちがうっかり有名人になったり犯罪者になったりすることだって、もしかしたらあるかもしれない。「え、これダメだったの?」で逮捕される人だっていれば、ムードに飲まれて残虐な事件に加担してしまう人だっている。自分が絶対そうならないなんて誰が言えるのか。
「自分たちはあくまで視聴者」「舞台にあがってる人物とは別の存在」
そんな間違った感覚がきっとあるのだろうと思う。だから平気で人格まで叩いたり出来るし、自分が舞台に立たされることをまったく想像もせずに放言できるのだろう。死刑反対派の議論がいまいち伝わらないのも、彼らが「自分が絞首台に立たされる」という事態をまったく想定してないからじゃないのか?
次の瞬間、舞台にあがるのは自分かもしれない。いやむしろ、自分がいるところが舞台になるかもしれない。一歩、いや半歩踏み出せば、注目を集めてしまうのは自分かもしれない。
そういう感覚はちゃんと伝えておかないといけないなあと思う。注目を集めてしまうことを恐れる必要が無いことも。
そして自分たちが実はうっかり犯罪を犯してしまったり、うっかり残虐な事をしてしまうような、か弱い存在なんだということも。
コンピュータは究極の左脳マシンだ。分析したり、細かいデータを無数に蓄えたりする事はできるが、全体像を描く事に関しては、全く役に立たない。
ウォール街がコンピュータに頼って、投資のリスクを見積もろうとしているのは、まさに左脳的な愚行だ。ウォーレン・バフェットはかつて、次のように警告した。「計算式を持ち出すやつには用心しろ」
電子頭脳は過去を見る事しかできない。つまり、既存のデータを分析する事しかできない。人間の脳には、未来に起こりうる事を視覚化する能力がある。右脳が発達していれば、なおさらその能力は高い。
